こんにちは。
6年生ともなるとそのまなざしを
・塾内順位から志望校の定員へ
・偏差値よりも過去問の点数へ
移していく時なのかもしれません。
ゼタ(是太郎。息子)はそれでいいのよ。
志望校目指して頑張って下さい!
でもその前にゆすらは
まだ偏差値で気になることがあるの。
塾の偏差値は、併願校を検討する際に
よく使われるものさしです。
なぜなら
中学受験の母集団(首都圏国私立5万人)で
我が子の位置を知ることのできる
一元的なものさしはないから。
そのものさしが1番欲しいのに!!
本番ではその母集団の大海原に
子どもたちは自分一人で漕ぎ出す。
塾は港みたいなもので大船ではない。
塾を出て漕ぎ出した我が子の船が
どこかの中学に到着できるように
親が相対的な子の力を見極めないと。
今日は新6年生の保護者として
改めて偏差値について考えてみます。
新4年生になると
通塾者が増えて塾内の偏差値が出ます。
自塾という安定した母集団内での
偏差値推移は中受の全期間を通じて
大変参考になるものです。
一喜一憂するもよし。
気にしなくてもよし。
全体における塾の位置と
塾における我が子の成績の掛け合わせで
全体での立ち位置を推測するもよし。
保護者としても偏差値をめぐり
中受に関する情報量が増える時期です。
ゆすらは中学受験の経験もノウハウもなく
何なら子育ても初めてなので
塾を頼るほかに
中受にまつわるネット情報もよく見る。
去年の夏に書いた通り(文末にリンク貼りました)
みんなが言うことはだいたい正しい
という感想は今のところ変わらず。
中受の言説の一つに、
4年前期の偏差値≒6年の最終的な偏差値
というものがあります。
これと正反対の考えが
ジャイアントキリングです。
ビリギャルみたいな現象。
以下の見方でこれらは矛盾しない
とゆすらは思います。
前者はトップ層で走り切ったお子様の
保護者の方がよくおっしゃってる。
勉強の必要性を理解しているような
賢い子は最初から最後まで賢い。
後者はスタートが遅れたものの
期限内に自分の最大限の力を発揮
するところまで到達できた子。
最初全然勉強しなかっただけ。
でもこの事例はほとんどないくらい少ない。
大学受験ならわかるけど、
中受は参加する時点で家族の意識が高いし。
逆に保護者様のご意向で
お子様が早くに勉強を始めた場合は
スタート地点が高いので
ジャイアントキリングとまではいかずとも
後から勉強を始めて伸びるお子様と
入れ替わる形で偏差値が下がることもある。
いずれにしても勉強しているのだわ。
みんなが勉強している中で
偏差値を上げるのはとても大変なことだから
勉強しなければ下がるのは
考えてみれば当然ね。
勉強という言葉を使うか
努力という言葉を使うか少し迷ったけれど。
偏差値=もともとの能力+勉強
これ、体育会の発想ね。
個人的に嫌いじゃないわ。
でもこれだと勉強(努力)で
全てをカバーしようとする人が出てくる。
これに対して学力は
もともとの能力で決まるのであり
その差は努力で何とかなるものではない
という批判をしばしば目にします。
お子様に無理をさせてしまう大人を
牽制しているのよね。
こういう方々は
偏差値=もともとの能力(勉強含む)
と捉えてるよね。
お子様それぞれの
もともとの能力は幅を持っていて
勉強しなければその下限に近づき
勉強すれば上限近くまで力を出せるという。
だから努力を否定しているのではないわ。
「だって自分の努力でどうにもできない
持って生まれた能力で決まるなんて
嫌だ!納得いかない!頑張る!」
という努力派の人たちに対して
持って生まれた能力の個人差は
スポーツでは当然のことなのに
勉強だとなぜ受け入れられない、
と嘆かれています。
養老孟司さんの書かれた本に
個性や多様性は内側(心や思考)ではなく
外側(身体)のことだとありました。
内側は他者を分かりたい、通じたい、繋がりたいと思うもの。
自分だけ突破な発想をして
それを個性と開き直れば非常識で迷惑。
何かをするには身体的能力が必要だが
それこそ持って生まれた能力によっては
出来ないこともある。それが個性であり
それを認めていくのが多様性ではないか。
言外に「逆だと思っていないか」
と言われたような読後感でした。
もう図書館に返してしまったので
ニュアンス含め解釈が間違っていたら
ごめんなさい!
この本です→(養老孟司『ものがわかるということ』祥伝社、2023年)
この観点をもって先ほどの話に戻ると
脳を内側と見るか外側と見るかよね。
ゆすらは長らく努力至上主義でしたが
脳は外側(身体)だと思います。
中受を終えられた先輩方のブログには
親は我が子を見ていれば
子の相対的な学力がどのくらいか
大体は分かるだろう、ともありました。
はい、わかります。
塾内でゼタはよく頑張っているけれど
本当の母集団でこれ以上は難しいだろうな
そこまでは崩れないだろうなというのが
4年生のうちに見え、
その感触は今のところ変わっていません。
長々と書いたけれど
最終的な母集団の中での立ち位置を知る
一元的なものさしがないことに変わりなし。
でも…
そのものさし、やっぱりいらない。
子がやる気をなくすから。
成長のため不確実性はあった方がいいわ。
というわけで。
中受の最終的な母集団と併願校について
考えるときは
①各塾がそれぞれ算出する予想偏差値
の他にも、
②過去問との相性、合格最低点を取れるか
③志望校別特訓での席順
④学校別模試での順位
⑤塾の校舎の過年度合格者数
などを使うのかな。
ただ、
どの指標も塾やお子様や中学によっては
使えなかったり読み間違えることがある。
動きのあるところは特にそう。
そうなったら最後は定性的に
⑥塾の暗黙知
⑦本人のやる気
⑧親の勘
で決めるのか…も?
上に書いた
①各塾がそれぞれ算出する予想偏差値
についてまだ書きたいけれど
長くなったのでここで一旦切ります。
続く。
(ご参考)文中で触れた記事です。
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6年生ともなるとそのまなざしを
・塾内順位から志望校の定員へ
・偏差値よりも過去問の点数へ
移していく時なのかもしれません。
ゼタ(是太郎。息子)はそれでいいのよ。
志望校目指して頑張って下さい!
でもその前にゆすらは
まだ偏差値で気になることがあるの。
塾の偏差値は、併願校を検討する際に
よく使われるものさしです。
なぜなら
中学受験の母集団(首都圏国私立5万人)で
我が子の位置を知ることのできる
一元的なものさしはないから。
そのものさしが1番欲しいのに!!
本番ではその母集団の大海原に
子どもたちは自分一人で漕ぎ出す。
塾は港みたいなもので大船ではない。
塾を出て漕ぎ出した我が子の船が
どこかの中学に到着できるように
親が相対的な子の力を見極めないと。
今日は新6年生の保護者として
改めて偏差値について考えてみます。
4年生の時の偏差値
新4年生になると
通塾者が増えて塾内の偏差値が出ます。
自塾という安定した母集団内での
偏差値推移は中受の全期間を通じて
大変参考になるものです。
一喜一憂するもよし。
気にしなくてもよし。
全体における塾の位置と
塾における我が子の成績の掛け合わせで
全体での立ち位置を推測するもよし。
保護者としても偏差値をめぐり
中受に関する情報量が増える時期です。
中受をめぐる噂
ゆすらは中学受験の経験もノウハウもなく
何なら子育ても初めてなので
塾を頼るほかに
中受にまつわるネット情報もよく見る。
去年の夏に書いた通り(文末にリンク貼りました)
みんなが言うことはだいたい正しい
という感想は今のところ変わらず。
中受の言説の一つに、
4年前期の偏差値≒6年の最終的な偏差値
というものがあります。
これと正反対の考えが
ジャイアントキリングです。
ビリギャルみたいな現象。
以下の見方でこれらは矛盾しない
とゆすらは思います。
前者はトップ層で走り切ったお子様の
保護者の方がよくおっしゃってる。
勉強の必要性を理解しているような
賢い子は最初から最後まで賢い。
後者はスタートが遅れたものの
期限内に自分の最大限の力を発揮
するところまで到達できた子。
最初全然勉強しなかっただけ。
でもこの事例はほとんどないくらい少ない。
大学受験ならわかるけど、
中受は参加する時点で家族の意識が高いし。
逆に保護者様のご意向で
お子様が早くに勉強を始めた場合は
スタート地点が高いので
ジャイアントキリングとまではいかずとも
後から勉強を始めて伸びるお子様と
入れ替わる形で偏差値が下がることもある。
いずれにしても勉強しているのだわ。
みんなが勉強している中で
偏差値を上げるのはとても大変なことだから
勉強しなければ下がるのは
考えてみれば当然ね。
勉強という言葉を使うか
努力という言葉を使うか少し迷ったけれど。
偏差値=もともとの能力+勉強
これ、体育会の発想ね。
個人的に嫌いじゃないわ。
でもこれだと勉強(努力)で
全てをカバーしようとする人が出てくる。
これに対して学力は
もともとの能力で決まるのであり
その差は努力で何とかなるものではない
という批判をしばしば目にします。
お子様に無理をさせてしまう大人を
牽制しているのよね。
こういう方々は
偏差値=もともとの能力(勉強含む)
と捉えてるよね。
お子様それぞれの
もともとの能力は幅を持っていて
勉強しなければその下限に近づき
勉強すれば上限近くまで力を出せるという。
だから努力を否定しているのではないわ。
「だって自分の努力でどうにもできない
持って生まれた能力で決まるなんて
嫌だ!納得いかない!頑張る!」
という努力派の人たちに対して
持って生まれた能力の個人差は
スポーツでは当然のことなのに
勉強だとなぜ受け入れられない、
と嘆かれています。
養老孟司さんの書かれた本に
個性や多様性は内側(心や思考)ではなく
外側(身体)のことだとありました。
内側は他者を分かりたい、通じたい、繋がりたいと思うもの。
自分だけ突破な発想をして
それを個性と開き直れば非常識で迷惑。
何かをするには身体的能力が必要だが
それこそ持って生まれた能力によっては
出来ないこともある。それが個性であり
それを認めていくのが多様性ではないか。
言外に「逆だと思っていないか」
と言われたような読後感でした。
もう図書館に返してしまったので
ニュアンス含め解釈が間違っていたら
ごめんなさい!
この本です→(養老孟司『ものがわかるということ』祥伝社、2023年)
この観点をもって先ほどの話に戻ると
脳を内側と見るか外側と見るかよね。
ゆすらは長らく努力至上主義でしたが
脳は外側(身体)だと思います。
中受を終えられた先輩方のブログには
親は我が子を見ていれば
子の相対的な学力がどのくらいか
大体は分かるだろう、ともありました。
はい、わかります。
塾内でゼタはよく頑張っているけれど
本当の母集団でこれ以上は難しいだろうな
そこまでは崩れないだろうなというのが
4年生のうちに見え、
その感触は今のところ変わっていません。
6年生の偏差値
長々と書いたけれど
最終的な母集団の中での立ち位置を知る
一元的なものさしがないことに変わりなし。
でも…
そのものさし、やっぱりいらない。
子がやる気をなくすから。
成長のため不確実性はあった方がいいわ。
というわけで。
中受の最終的な母集団と併願校について
考えるときは
①各塾がそれぞれ算出する予想偏差値
の他にも、
②過去問との相性、合格最低点を取れるか
③志望校別特訓での席順
④学校別模試での順位
⑤塾の校舎の過年度合格者数
などを使うのかな。
ただ、
どの指標も塾やお子様や中学によっては
使えなかったり読み間違えることがある。
動きのあるところは特にそう。
そうなったら最後は定性的に
⑥塾の暗黙知
⑦本人のやる気
⑧親の勘
で決めるのか…も?
上に書いた
①各塾がそれぞれ算出する予想偏差値
についてまだ書きたいけれど
長くなったのでここで一旦切ります。
続く。
(ご参考)文中で触れた記事です。
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